日本の価値観を知るために日本人の生い立ちを探ってみる
国民性とも言える勤勉さや真面目さで世界をたまに驚かせる日本人。(逆もありますが)
どんな要因が日本人を日本人らしくしているのでしょうか。
人の価値観を知るには、生い立ちも重要、ということで日本人の価値観を知るために、日本人の生い立ちを探ってみましょう。
今回の目的:日本人の価値観の成り立ちを考えるために日本人の起源を探る
参考にした書籍
(1)「ホモ・サピエンスの誕生と拡散」(篠田謙一著、洋泉社、2017)
(2)「日本人はどこから来たのか?」(海部陽介著、文芸春秋、2016)
(3)「和食とうま味のミステリー 国産麹菌オリゼがつむぐ千年の物語」(北本勝ひこ著、河出書房新社、2016)
(4)「麹(ものと人間の文化史138)」(一島英治著、法政大学出版局、2007)
(5)「「和の食」全史 縄文から現代まで 長寿国・日本の恵み」(永山久夫著、河出書房新社、2017)
アフリカから出発して日本列島にたどり着いた人たち=日本人(1)
わたしたちは日本人というグループの前に、もっと大きなグループで見たときには地球に住む人類=ホモ・サピエンスということになります。われわれホモ・サピエンスは、約20万年前にアフリカで生まれたとされています。(ホモ・サピエンスの誕生)
そして、アフリカに10万年暮らしたのち、しだいに各地へ広がっていきました。(ホモ・サピエンスの拡散)
人類(ホモ・サピエンス)がアフリカから拡散して、アジアに足を踏み入れ、日本列島に行き着くわけですが、まだ詳細は詳しくわかっていません。
日本人は混血人種(ミックス)⁉
ざっくり言えることは、
1.アフリカから拡散した人類は、南と北の2つの道のりで東アジアにやってきた
2.縄文人は3つのルートで日本列島に入った人びとの混血の人種だった
3.農耕技術や発酵技術を持つ弥生人が徐々にやってきて何世紀もかけて、ゆるやかに縄文人の血と混ざりあった、ということです。
なので日本人は単一民族と言われることが多いですが実は、縄文人の血で3つのルーツを持っていて、さらに時間が経ってから大陸からやってきた弥生人の血が混ざった混血(ミックス)なのです。ここからは1~3についてもう少しくわしく見てみましょう。
1-1アフリカ→東アジアへの2つの道のり、そして再会(2)
アフリカを後にした人類が東アジアに足を踏み入れたのが、約4万年前である説が有力ですが、どんな道のりだったのでしょう。
東アジアに入るために難関として立ちはだかったのが、「ヒマラヤ山脈」でした。人類はこの難所を避けるように、4万8000年前頃に南と北に分かれます。そして、南北2つのルートを通って1万年の歳月を経て、3万8000年前頃に東アジアでふたたび出会ったと考えられています。
1-2南の道のりと北の道のり、違った石器
スタートは一緒でも、南北それぞれ通ったルートが違う人びとに違いは現れたでしょうか。
その答えは生活の知恵(技術)にありました。わかりやすいのは、石の道具、石器の違いです。南を通って東南アジアに入った人びとは、石を割っただけの素朴な石器を使いました。
もう一方の北から東アジアに来た人びとは高度な石器技術だった「石刃(せきじん)」という技術を利用していました。「石刃」とは刃のような薄くて鋭い石器のことで、「石刃技法」とは同じ石から何枚も石刃を剥がすようにしてつくる高度な方法のことです。北のルートから来た人びとが高度な技術を持っていた理由としては、寒冷な気候という厳しい条件に適応するため、技術を高度にする必要があったのではないと考えられています。
いずれにしても2つの異質な文化を取り入れた人びとが日本の源流に含まれていることが、今の日本人の独特な文化にも反映されているかもしれません。
1-3肉食VS草食?
話は逸れますが、この日本列島にホモ・サピエンスが到達するまでに経験したと思われる南と北の2つのルート、これらを通して日本人は潜在的に肉食と草食に適応できる時期がそれぞれあったのかもしれません。
北のルートの人びとは寒冷な地で生活するため、植物が少なく動物を狩ってその肉を食べた=肉食に適応。南ルートの人びとは温暖な気候で植物が沢山生えている環境で、植物を採集する方が効率的=草食に適応というように。現在でもヒトの食性についてはいろんな論争がありますが、少なくとも雑食的に進化してきたとは言えるでしょう。
2-1縄文人は少なくとも3つの血が混ざる混血の人種
いよいよ大陸から日本列島に人類がやってくることになります。みちのりとしては、少なくとも3つのルートが考えられています。
①シベリアから北海道に来るコース
②朝鮮半島から対馬を経由するコース
③台湾から琉球半島を渡ってくるコース
縄文人のDNAを調べると東南アジアといった周辺地域に似たようなDNAのグループがないことから、縄文人は3つのコースから日本列島にきて混血するという、他の地域に類を見ない人種であると考えられています。
2-2縄文時代はじまる
当時(4万~2万年前)は、まだ石器を使っていたので旧石器時代のことです。その後、時が経ち1万6000年前に土器の使用が始まり「縄文時代」がスタートします。
ちなみに縄文時代の区分は土器の形の変化によって、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に分かれるそうです。この土器の発明によって食生活が大きく変わって、ドングリやクリなどの堅果類のアク抜きや燻製ができるようになったと考えられています。
3-1農耕や発酵を持った弥生人が日本列島にやってくる→血統の多様性がさらに深まる
縄文時代の晩期(3000年~2400年前)になると気候変動が起きます。気温の低下に伴って起きたのが、食料の確保が難しくなったことでした。クリを栽培していたとされる地域(東北地方の三内丸山遺跡)もあったのですが、堅果類の採取量が減り、人口が減ってきます。
このような不安定な気候の時代に、水稲栽培をする人びとが北九州に現れます。その人たちが、中国の長江下流や朝鮮半島の南部から来た渡来系弥生人です。
日本列島は低湿地が多く、稲作に向いている地域(好適地)でした。彼ら渡来系弥生人は水稲技術やカビの発酵技術を知っていて、北九州にいた縄文人と友好的に交流することで技術や血統について新しい時代をつくり出していきます。
3-2日本人の食のかたちができあがる(5)
縄文人と渡来系弥生人の混血という混ざり合わせによって日本人は、今日まで続いている「米」という主食を手に入れました。日本人の食事の主食が米に置き換わる一方で、縄文時代の食事である狩猟・採集・漁労も続けていました。この弥生人の水稲栽培による「米」と縄文人の狩猟・採集・漁労による「食材」の出会いが、現在の和食の型「一汁三菜」に最終的につながっていきます。
世界の寒冷な地域では、麦と肉食の文化が定着しましたが、温暖な気候の日本には米と魚食の文化がベースになりました。
また、渡来系弥生人は麹菌を使いこなしてお酒をつくる人びとだったので、縄文人が持っていた「口噛み酒」という最も原始的なお酒のつくりかたも弥生人の進出によって北海道と沖縄に追いやられてしまいます。(3)(4)